春宮の裏手を流れる砥川にある島で浮島と呼ばれている。
砥川は諏訪湖北側の最大の川で氾濫を繰り返してきたが、
この島だけはどんな洪水にも流されたことがなく
濁流の渦巻く大水の時でも浮いているように見えるため浮島と名付けられた。
島の中の社は浮島社で被戸大神をまつる例祭は6月30日、
練作田社の祭りに引き続き行われ川辺に茅輪を設け、くぐって夏越しの安穏を祈る。
昔は川中に五色の吹流しをなびかせ、紙の人形にけがれを移し川に流した。
初夏の緑に映える古式は絵のように美しかったと伝えられている。
浮島の対岸には万治3年11月1日と銘のある石の阿弥陀様(万治の石仏)が座り続けている。
6月の末に植えた稲が8月1日に収穫できた。
御作田神社(小さな境内だが古社である)で6月30日の例祭に苗を植えるとたちまち米がとれる。
諏訪明神は農耕神であり、その神力の不思議さから大社の神事の中でも大切な祭りとされている。
田植祭りは稲を奉り、白の水牛、鳥帽子姿の神官たちによって耕牛に扮したり、田遊びの舞が執行される。
神事が終わると耕作長による田植えが行われる。御作田神社の境内にある杉や桜の老木は古社であることを物語っている。
根入杉(下社御宝木)
樹齡推定
700~800年 高35メートル 目通り5.3メートル
丑三つ時(2時~2時半頃)枝を三寸下げて眠り、幹に耳を当てるといびきが聞こえるといわれている。
また、落ち葉を煎じて飲ませると子供の夜泣きが止まるとか、国家に変事がある時はうなりを発するなど様々な言い伝えがある。
ちなみに秋宮のご神木は一位の木であるが、春宮のご神木は杉の木である。
湯口の清濁(湯玉伝説・綿の湯)
上社にお住まいになられた女神様(八坂刀売神)が日頃化粧に使われていた湯を綿に含ませて下社に渡られた。
その時滴り落ちた湯が上諏訪から下諏訪にかけての温泉といわれている。
最後にその綿を置いたところが下社の地で、そこから凄まじい勢いで湯が噴出した。
この湯は神社に属する神聖な精進の湯とされ不浄なものが入るとたちまち湯がにごり「それは神のお怒りだ」と入浴を禁じてきた。
八坂刀売が綿に含ませてお持ちになったことから「綿の湯」と呼ばれた。
そんな神湯「綿の湯」も江戸時代になると街道の発達とともに庶民の湯となり天下の名湯として知れ渡った。
江戸時代の諸国温泉番付に「信州諏訪の湯」として掲げられている。これは名湯と言われた「綿の湯」のことである。
穂屋野の三光
御射山祭の最後に太陽・月・星を同時に拝することができる。
御射山祭は8月26日から3日間原山(霧ヶ峰)一帯で行われる。
諏訪明神は農耕神として民衆を導いた神事が多い。
農作にとって一番恐ろしいのは、秋の台風。
山神に農耕に関わるすべての神々を同帯して天下万民のため祈りを捧げた。
御射山神事は諏訪神社にとって最も重要な神事だった。
穂屋野へ全国から参詣人奉仕の人はもとよりもろもろの芸人などが集まり、それらの人々が野営する仮小屋(ススキの穂で作る)ができた。
神事の後、流鏑馬、犬追物等の武術の技術が奉納された。
御神渡り
冬 全面結氷した氷の上を上社の男祭神(建御名方神)が下社の女祭神(八坂刀売神)のところに通った跡であると言われる(恋道)。
湖水が結氷し膨張と収縮を繰り返し張り裂け
盛り上がり湖上を横断する現象を神渡りといい二神の素敵なロマンに結びつけた。
又、この御神渡りの方向・形によってその年の吉山を占った。
政治(まつりごと)が占いによって行われた時代には御神渡りの宣話は国家にとても重要だった。
六百年前、幕府に報告した「御渡注進状控」が残されている。
江戸時代になると報告内容も克明になり現在もこの伝統は毎年気象庁に報告されている。
昔は、御神渡りがすまないと湖が凍っても氷上を通行することはしなかったという。
筒粥の神事
農耕としての代表的な祭りで農作を占う筒粥神事である。
春宮にある筒粥殿で1月14日夜半から15日早朝にかけて
大釜に華(ヨシ)の筒(茎)44本と白米と小豆をもとに煮る。
小豆粥が葦の筒の中に入った量で43種の農作物と作柄と世の中全般の豊凶を占う。
古式による切り火で採火し、正装した神官らが夜を徹し奉仕する伝統行事である。
早朝5時から取り出した筒を拝殿に移し1本ずつ読み上げる。
豊作物作柄「夏大根上の中」「そば中の上」など神の宣託が下される。
筒粥神事は鎌倉時代からの記録が残っている。
現代でも15日には神社への問い合わせが沢山あるという。